>三日日記>増山たづ子という村の写真家

>三日日記> 増山たづ子という村の写真家

(2024/01/27)徳山村から一歩も出ずに、一生ひたすら村内の出来事をスナップ写真として残し続けたおばあさんがいました。
残した写真は10万枚。 膨大かつ貴重な記録が後世に残りました。

 残る写真は、どれも信頼感にあふれています。
(クリックして、是非一枚目の写真をご覧ください)↓

 《櫨原(はぜはら)分校》1983年[参照]

信頼感に満ちた子供達の顔、押しつぶされながらそれを受け止める先生のうれしそうな顔。
それだけでは、このような写真は撮れません。
撮影した増山さんが安心できる人で、あとでこの写真を焼き増しして持ってきてくれる、ことを知っているからです。
狭い村内で、写真家も子供達も、良い人だと全員が知っている、それが成り立つ社会、それが徳山村でした。
同じ人物スナップ写真でも、「#牛腸茂雄 」の残したものと、えらく違います。 牛腸さんの場合は、怪しげな写真家の正体を被写体が知らず、不安な顔をしています。

 写真展「はじめての、牛腸茂雄。」[参照]

 徳山村は2006年10月に水没し、今は徳山ダムの底に沈んでいます。
増山さんが写真を始めたのが1977年、61歳のときです。 きっかけは、徳山村がダムの底に沈むと本格的に決まり、戦争に行って行方不明になっている夫が帰ってきたときに、それでは困るだろう記録しておこうと思ったからだそうです。
もらい始めた国民年金も後押ししたことでしょう。 当時はカメラは撮影して印刷するまで、一枚あたり100円はかかる高価なものでした。 ひなびた山村で農業と民宿をしながら、夫の帰りを待ちわびる身には、ありがたかったと思います。

 実は、明るく振る舞っていた増山さんは、毎日「友だちの木」と呼んでいた老木に、一人ぽつんと語りかけていたそうです。
また、ダム計画が出た1957年から村人達も推進派と慎重派に別れ、村にはしだいにぎすぎすした空気が流れていました。

1985年、いよいよ離村の時が来ました。 家は壊され、木々はすべて切られて行きました。 そのときの様子も撮影しています。
(クリックして、二枚目の写真をご覧ください)↓

 《花盛りなのに》1985年[参照]

悲しいはずの出来事なのに、あくまでも美しく撮っています。

 結局村の写真家は、村の実態ではなく、村の美しい瞬間を捉えて後世に残しました。
きっと、帰ってくるかもしれない夫のために
離村の時、息絶え絶えだった「友だちの木」は枯れてしまいました。

 増山さんの懇願が通じて、「友だちの木」だけ村に残りました。
今日も、かって村のあった場所には、話し相手であった増山さんと、帰ってくるかもしれない夫のために、孤独な「友だちの木」が湖底にぽつんと立っているかも知れません。
参考:
 ・「#語りの背後にあるもの 」、#竹内万里子 、図書2024年1月号、岩波書店
 ・動画: #徳山村を舞台にした映画「ふるさと」(監督:神山征二郎)  

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